2017年5月21日日曜日

20170521

『イノベーターたちの日本史 近代日本の創造的対応』(米倉誠一郎:東洋経済新報社)

一橋の名物教授:米倉先生の本。明治維新から昭和の初めまでの歴史をイノベーション・アントルプルヌアシップの切り口で解説している。歴史上の出来事をケーススタディのように読むことが出来て面白かったし、このような表現方法を取ればメッセージの色がだいぶ変わることを実感した。

「明治時代に若者を海外に派遣して学ばせ、帰国後に日本で活用した」と言った記載はよく見てきたが、その裏には資金を調達して人を雇って、販売網を築いて事業を継続する苦労があったわけで。海外で学んだことを日本流にするために新たな組織を作るイノベーションが多く行われた結果でもあった。


【登場人物】
  • 高島秋帆:アヘン戦争に関する情報を収集して危機感を持ち、西洋の大砲を輸入して最新の砲術を学んだ。また、輸入した大砲を分解して量産して国内に販売して大砲の整備を一気に行った。謀反の濡れ衣と一財産築いたことで10年以上投獄された。海外諸国が開国を要求してきたときに「勝てない戦争はせずに開国して貿易を行うべき」と進言した。
  • 大隈重信:日本国内におけるキリスト教をめぐる譲歩と決別した外交折衝が大隈を志士から大蔵官僚へと脱皮させた。通貨政策と財務問題に苦労した・・・
  • 笠井順八:士族を解体するために公債を発行して秩禄を処分し、士族授産政策で新規事業を推進した。山口にいた笠井は西洋建築が増えることからセメント需要の伸びを予測して小野田セメントを創業した。旧士族の同胞の不安をなくすため、株式会社として発行して有限責任とした。
  • 三野村利左衛門:政府御用達商家であった三井は幕末の波乱に対応するため、三井家ではない三野村を登用した。銀行を設立するために祖業である呉服業を分離し、事業リスクを最小限にしつつ、三井家による資本と経営の分離を果たした。
  • 益田孝:これからは通商の時代と読んで設立された三井物産の経営を担った。ビジネスと英語を理解し、外国・国内共にネットワークを形成していた。三池炭鉱の将来性を見込んで三菱と競り合って落札した。
  • 中上川彦次郎:三野村によって分離された資本と経営だったが、三野村死去後は三井家が経営を取り戻していた。しかし、経営に失敗して「腐食した大木のごとく」となってしまい、中上川が抜擢された。三井銀行の不良債権問題を片付け、慶應出身者を採用して育成し、将来の日本を支える経営者を多数輩出した。
  • 岩崎弥太郎:顧客サービス第一を掲げて海運業を初め、士族の反乱を抑える政府の仕事をこなすことで力をつけた。船舶海運事業の燃料でもある石炭事業に参入し、造船・金融と多角化を進めた。
  • 高峰譲吉:科学知識の実用化を掲げ、人口肥料の事業化を行った。アルコール発酵の研究から酵素を発見し、胃もたれの医薬品としてタカジアスターゼを販売した。「最新の戦艦を買うなら研究所を作れ」と理研設立の提案を行った。
  • 大河内正敏:理研にはスター研究者が集まったものの、物理派と化学派で不毛な議論が延々と続いて初代・2代目所長は短期間で辞任した。3代目の大河内は無理にマネジメントするのではなく「予算・人事も全部任せる」という事業部制のような体制にした。大河内は「どうですか」と研究室を回って様子を伺い、「基礎科学の研究が主、発明は従」と断言していた。各研究室はタコツボ化せず、お互いに人の行き来が増えるイノベーティブな組織となった。



しかし、明治元年(1866年)段階で長老と言われた木戸孝允が35歳、井上馨・大隈重信が30代前半、伊東博文はまだ20代!自分の方が年上じゃないか(笑)
夢と理想に燃えた「幕末の志士」から、現実問題として外国と交渉しながら国防体制を整え、産業を起こしていかなくてはならない「維新官僚」に成長した。「実際にどうする?」にしっかり答えを出してきた結果だろう。







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